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豊橋の鬼祭り

2019年2月10日は鳥羽の火祭りを見て、翌11日は、豊橋の鬼祭りを見に行った。

 

2月10日、鳥羽の火祭りを見て、21時ごろから11日午前2時ごろまで駐車場で車中泊。

 

目が覚めてとりあえず幸田の道の駅へ行ったが、駐車場は結構車がいっぱいで、多分皆様睡眠中であろうから、横で電気をつけてゴソゴソ仕事をするのも悪かろうと、トイレだけ行って、すぐに鬼祭りのある豊橋へ向かう。

途中、コンビニでサンドイッチと缶コーヒーを仕入れて腹ごしらえ。

 

祭りのある「安久美神戸神明社(あくみかんべしんめいしゃ)」のすぐ近くに豊橋公園があり、そこには大きな無料駐車場があり助かった。

 

4時前には駐車場に到着したが、まだほとんど駐車している車はなく、インターネットにつないで1時間ばかり一仕事してひと眠り。

7時ごろ目が覚めて、近くのトイレで用を足し、歯磨き・洗顔、車にもどってお湯を沸かしてカップ麺とインスタントコーヒー。

 

祭りは、8時半から「御日の出神楽」が始まるので、8時ごろ神社へ行って、とりあえず、境内を見て回る。

 

国道に面して、一の鳥居。

 

参道を歩いて、二の鳥居。

そして、拝殿と、その前にある「八角台」。

 
 
 

まずは、社務所で「タンキリ飴」を購入(200円)。

 

鬼祭の縁起物であるタンキリ飴は、食べると夏病みしないと言われているそうで、1年の12か月を表わす12粒入っているとのことだったが、1つは割れたらしく、13粒になっていた。

 

境内脇の建物に祭りの主役の、「赤鬼」の人形があった。

祭りは10日が宵宮祭りで、11日が本祭り。


8時半から、「御日の出神楽」が始まる。アナウンスによる説明によると、260年前から伝わるそうで、稚児が二人、東を向いて、右手に鈴、左手に幣(ぬさ)を持ち、左、右、左、さらに右に3回ずつ、合計12回まわる。

次の行事の「例祭」は、10時からということで、駐車場は近いので、とりあえず車に戻り、一仕事。

9時半頃境内に戻ると、拝殿前の色々な神事が行われる「八角台」の周りには、例祭の後行われる「厄除け飴まき」を目当てにに多くの人たちが集まっていてた。

 

わたしは、例祭の途中で舞われる「浦安の舞」をのぞき込める位置に陣取る。

浦安の舞は、Wikipediaによれば、

1940年(昭和15年)1110日に開かれる「皇紀二千六百年奉祝会」に合わせ、全国の神社で奉祝臨時祭を行うに当たり、祭典中に奉奏する神楽舞を新たに作ることが立案され、当時の宮内省楽部の楽長である多忠朝が国風歌舞や全国神社に伝わる神楽舞を下地に作曲作舞した神楽舞である。」

 

「浦安」とは、これもWikipediaによれば、『「うら」は心を指す古語であり、「うらやす」で心中の平穏を表す語であるとされる。また、『日本書紀』に「昔伊弉諾尊目此国曰。日本者浦安国。」とあり、他の文献にも日本国の別称として「浦安国」とあることから、神祇の安寧慰撫と国の平穏無事が、題名である「浦安」の語に込められている。


例祭と飴まきが11時ごろ終わり、次は、
11時50分から「子鬼」が入場ということで、それまで出店で「広島お好み焼き(500円)」、自動販売機で暖かいお茶を買って昼食とする。

食べているときに、タンキリ飴を配っている人が2人、子供たちに配っていたが、私も1袋いただいた。

境内をぶらついていると、一の鳥居のところに11時40分ごろ、小鬼とそれを支える集団を発見。

小鬼とその集団がが拝殿前に向かって走り始めると、飴とともに白い粉をまき散らして、ビデオを撮っていた私もふいを喰らって、全身粉まみれになった。無病息災。

この白い粉をまき散らすのがこの祭りの醍醐味で、突然ではあったが、楽しめた。
粉は、毛糸の帽子で払うと、きれいにとれた。

 

12時30分からまた神事があり、「浦安の舞」が舞われ、神楽殿では「五十鈴神楽」が舞われた。

「五十鈴神楽」では、神楽児が太陽と月を表わす金冠を頭に載せ、右手に鈴、左手に幣(ぬさ)を持ち、左、右、左に3回ずつまわる。

 

この後、また飴まきが行われ、ここには愛知県知事も参加していた。

知事は前日の鳥羽の火祭りにも来ていたので、祭りに顔を出すのも仕事の内なのだろう。

 

午後は、つぎから次へと行事が続き、どのポジションで観るのがいいのかもわからず、あちこちうろうろする。

 

13時をすぎたころ、八角台に神棚が置かれ、大きな鬼の面が安置され、午後の行事の準備がなされ、午後の神事・行事を見守る「黒鬼」が13時50分ごろ入場して、「御的の神事」が始まった。

アナウンスの説明によると、「神前で矢を射って、その年の農作物の豊作を祈り、夏病み退散を祈願するもので、乾地と福地の若者が2本ずつ3回、1年12か月を意味する合計12本の矢を射って、1年の平安無事を祈るり、12本目の矢が射られると、若者たちが御的を奪い合い、その的は自宅の玄関にに魔除け・厄除けのお守りとしてとりつけられる。」

 

御的の争奪戦は、今回は談合されていたようで、争うことなく一人の若者が手にした。

 

14時20分ごろ、御的の神事が終わるとすぐにこの祭りの最大の主役の赤鬼が入場してきて、八角台の神様を拝すると、天狗との「からかい」が始まる。

「からかい」は、荒ぶる神の素戔嗚尊を表わす「赤鬼」と、武神猿田彦を表わす「天狗」との戦いだそうで、この戦いに敗れた赤鬼は改心して、世の平安を念じつつたんきり飴をまちながら町内を巡回する。

 

赤鬼の「たかあしどり(高足取り?)」という歩き方が独特で、足を跳ね上げて飛ぶように進む。

 

赤鬼と天狗の戦いは、激しいものではなく、かなり形式化していて、長い参道を赤鬼が向こうで待つ天狗のところへ行き、二人で八角台の神前まで戻ってきて、もう一度二人で行って帰ってきて、赤鬼が退散するのが15時40分ごろだったから、1時間以上そののんびりしたやり取りが続いた。

 

赤鬼が退散すると、天狗が意気揚々と神前に拝して、八角台に座ると二人の「司天師(してんし)」が6人の稚児とともに八角台の壇上に上る。

 

「司天」とは、天文博士ということで、饅頭笠をかぶり、その傘には、雲龍に太陽と月が描かれ、内側には28の星座がえがかれているそうで、天文を司ることから、農耕との関係がうかがわれるそうだ。

 

そして司天師と稚児、天狗の神楽が奉納される。

そして16時半ごろ、最後の神事である「御玉引の年占」が始まる。

高いところを表わす「乾地」と低いところを表わす「福地」との玉引き相撲で、3回勝負。今年は「福地」の21敗で「福地」が勝ち、雨が少なく、低い土地の農作物が豊かになるそうだ。

 

この藁でできた「玉」は私の横で話していた、祭り関係者と子供たちの会話によると、「きんたま」を象ったものであるようだ。

 

そして17時ごろ、天狗を先頭に黒鬼や役の人たちが「談合宮」へ御神幸に出発した。

 

黒鬼が二の鳥居を出るときに、また飴と供物が撒かれたので、最後なので、せっかくだからと私も参戦して供物を拾った。

子供たちの中にはスーパーのレジ袋いっぱいの戦果の子たちもいたが、私はおもわずよろけてこれだけ。

 

供物の中味は、あられと殻付き落花生。

 

赤鬼の町内の飴まき巡行は23時ごろまで続くそうだが、私はここまでで、美しい絵馬(2000円)を記念に買ってこの日も一日堪能して、帰路についた。